子供の頃一番悲しかったこと
私は、先天性の緑内障で視覚障害はありましたが、保育所と小学1・2ねんは地元の小学校に通いました。 小学3年生で盲学校(現在は特別支援学校)に転校しました。 実家からは通学が無理なので、学校の敷地内の寄宿舎にも入りました。 後にも先にも私たちのクラスだけでしたが、学校が試験的に全盲クラスと弱視クラスに分けていて、私は弱視クラスで女子一人でした。 担任の先生は、西原先生(女性)でした。 体育の時間の着替えも先生と一緒、学校から通路伝いに寄宿舎に帰る時も先生と手をつないで一緒でした。 私は先生のことを「おばあさんみたい」と思っていました。 体育の時間や休み時間、プールの時もあまり一緒に動かず見守っておられる感じだったからです。 4年生になった時、西原先生が持ち上がりで担任してくださると喜びましたが、間もなく先生は入院んされました。 なので私たちのクラスの授業も、主に全盲クラスの担任の先生がみてくださいました。 西原先生のお見舞いにも、この全盲クラスの先生に連れて行っていただきました。 そしてずっと気になっていた病名も「白血病」と教えていただきました。 原爆で被爆しておられたのです。 結婚もせず子供も持たず、病気と闘いながら教師を続けておられたのです。 西原先生は緩解して一時の隊員ということもなく亡くなってしまわれなした。 私たちのクラス5人は先生の「最後の子供」でした。 5人のうち3人も先生が行かれた方に行ってしまいましたので、こちらに残っている者の役割は「忘れないこと」と強く自分に言い聞かせています。