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友達の話ですが…

旅行先で買い物をした時の話です。 豆腐ちくわを買うため、レジの列に並びました。 だんだんレジ台に近づき、そろそろ自分の番という時「○○円です」と聞こえてきて、「えーっ!」と大声を上げました。 「まあ、大きいには大きいけれどちくわ1本でその値段?」とびっくりしたんだそうです。 自分より1人前のお客さんの金額が耳に入っての話でした 。

頭の中はすでに春?

                     

親の気持ちと子供の気持ち

褒められた?

以心伝心?

市役所本庁舎内のバリアについての意見交換がありました。 役所からは管財課から3名、障害福祉課から1名(だと想像した)、身体障碍者福祉センター所長と、障害当事者の会から会長と障害種別ごとの代表各1名とでお話をした。 市役所ロビーに集合した時たまたま私に付き添ってくれていたヘルパーさんが離れていて、人の話し声で私もその輪に加わらなくてはと車いすの人の名前を呼びながらそちらに移動してその方の腕や車いすのハンドルに手が触りたどり着いたと判りました。 その方は無言でしたが、私の手が当たるように車いすを操作してくださったんだと感じました。 また、小児まひで特に上肢、とりわけ左上肢が不自由な方が私を手引き誘導してくださる時、私は習慣で誘導してくれる人の左側が好みなので、ついつい左腕をつかんでしまいます。 そうすると私の右手を自身の右手で脇の下からひっぱり出すようにして誘導してくださいます。 その方にとっては左腕をつかまれるのは「つかまれている感覚に自信が持てない」=「安全な誘導にならないかも…」ということでそうされるのだろうと思っています。 最近は左を好むということを覚えられたようで、「自然なスタイル」になって来たように感じます。 私から見ての「以心伝心を、言い換えるなら「配慮」とか「気遣い」ということでしょうか。  

子供の頃一番悲しかったこと

私は、先天性の緑内障で視覚障害はありましたが、保育所と小学1・2ねんは地元の小学校に通いました。 小学3年生で盲学校(現在は特別支援学校)に転校しました。 実家からは通学が無理なので、学校の敷地内の寄宿舎にも入りました。 後にも先にも私たちのクラスだけでしたが、学校が試験的に全盲クラスと弱視クラスに分けていて、私は弱視クラスで女子一人でした。 担任の先生は、西原先生(女性)でした。 体育の時間の着替えも先生と一緒、学校から通路伝いに寄宿舎に帰る時も先生と手をつないで一緒でした。 私は先生のことを「おばあさんみたい」と思っていました。 体育の時間や休み時間、プールの時もあまり一緒に動かず見守っておられる感じだったからです。 4年生になった時、西原先生が持ち上がりで担任してくださると喜びましたが、間もなく先生は入院んされました。 なので私たちのクラスの授業も、主に全盲クラスの担任の先生がみてくださいました。 西原先生のお見舞いにも、この全盲クラスの先生に連れて行っていただきました。 そしてずっと気になっていた病名も「白血病」と教えていただきました。 原爆で被爆しておられたのです。 結婚もせず子供も持たず、病気と闘いながら教師を続けておられたのです。 西原先生は緩解して一時の隊員ということもなく亡くなってしまわれなした。 私たちのクラス5人は先生の「最後の子供」でした。 5人のうち3人も先生が行かれた方に行ってしまいましたので、こちらに残っている者の役割は「忘れないこと」と強く自分に言い聞かせています。  

視覚障害当事者からメッセージ

     視覚障害者が介助サービスを受けるために役所に申請したら、調査担当の方が聞き取り調査に来られます。 質問に答えて行きますが、質問の内容は視覚障害に特化した者だけではないので中には「急に不機嫌になることがありますか?」とか「気分にむらがありますか?」とかそんな質問もあります。 友達は「物を投げることがありますか?」と聞かれたとき「投げませんよ、あと拾うのが大変ですもん」と答えたと聞き、大笑いしました。 実際、乳酸菌飲料が複数まとめてビニールでパックしてある物を不用意にパックを破って開けた全盲の友達は、四方八方に転がっていったものを拾い集めるのに四つん這いになって床面を探し回らなければならなくなって、自分に腹が立ったと言っていました。 基本的に視覚障害者(とりわけベテラン)は、落ちた音を耳で  追いかけるので概ね「あのあたりに行った」とか「百円玉だったな」とか自然に訓練ができています。 見えなくなりたての人に「リハビリや生活訓練を受けて見られては?」というと「今更訓練なんて!」と拒否されますが、訓練を受けた人は「行って良かった」と言われます。 共感する誰かがきっといます。 耳を澄ませて聞いてみてください。